福岡から来た連節車
福岡から来た連節車 | 5010ABと5011AB→ | 5014ABと5015AB→ | 5000形の塗装→ | 5000形アラカルト→ |
今川橋で休む同型の連節車('75.8.9) (細井敏幸コレクション) |
●このサイトの紹介
このサイトでは、西鉄福岡市内線1000形連節車4編成が熊本へ嫁いで来て5000形となってからの足跡を、これまで発表されていなかった秘密の写真などを交えながら、「最初に導入された5010ABと5011AB」、「増備された5014ABと5015AB」、「5000形の塗装の変遷」、「いろいろな5000形」の4つにわたって紹介しましょう。
●連節車導入のいきさつ
1965.2.の川尻線廃止以降、市電の不採算路線は次々と切り捨てられていきました。再建計画では残る2号系統と3号系統も廃止される予定でしたが、市民からの存続要望、余剰人員の問題、バス転換後の交通渋滞などを考慮し、1976.2.の公営企業委員会の席上で廃止を2年以上延期することを表明しました。その条件として運転系統の手直し、運賃改正を実施する他、朝ラッシュ時に健軍方面で発生している積み残し客の解消策として連節車を導入することも盛り込まれました。折しも、西鉄福岡市内線は1975.11.に市内線の2/3を廃止し、大量の連節車が売りに出されていましたので、これを購入することにしました。
●5000形の車号の意味
熊本へ来た連節車は5000形という形式を与えられました。これは350形以降原則として昭和の年号を形式に採用してきたためで、昭和50年代ということで5000形となりました。
車番の下2桁については、ちょっとしたエピソードが隠されています。