開業当時の車両
車両の形式選定に際し、「単車」が採用されたことは「第一期線の工事開始」のページでも述べた。ここでは熊本市電で最初の車両形式、すなわち10形27両(11〜37)について詳しく見てみよう。
この形式の設計に当たっては、「熊本市電三十年史」によれば、
「単車の採用になったため、当時米国でその価値を認められていた乗降しやすい低床形を模倣し、制限範囲内でなるべく車内面積を有効にとり、乗客収容量を大きくし華美でなく、また粗略でなく、堅牢で自重が軽く、便利で安全性の高い車両とし、台枠を鉄骨、その他を木造とし、台車には米国『ブリル』会社の発明で、市街電車用として乗り心地が良いと賞賛されていた『ブリル79E』を採用また従来電車に空気制動装置を取り付けるのは困難とされていたが、これを装備して運転効率の向上を図り、手動制動機を予備とした。」(一部現代語訳)
という内容のことが記述されている。この様に当時としてはなかなか意欲的な車両であったことがわかる。
10形の竣功図(救助網改造後)
10形は最大寸法が長さ28'-9"1/2(8,776mm)×幅7'-6"(2,286mm)×高さ10'-4"3/4(3,169mm)(33〜37は高さのみ11'-1"3/4'(3,397mm)に変更)、定員44人(内座席24人)、自重7.5tonの車両で、1両当たり約14,000円で製造されている。
車体は11〜20・31・32が梅鉢商会(梅鉢鉄工)、21〜30が田中車両、33〜37が日本商会製。電動機は11〜18がWH社のWH-508A、30HP(22.4kW)、19〜32が東洋電機のTDK-506S、30HP(22.4kW)、33〜37がGE社のGE-264A、25HP(18.7kW)を2個ずつ装備している。
台車には11〜32に前述のブリル79E-1、33〜37に日本商会製のものを使用。ブリル社の台車を使用したためか車両の寿命が長く、昭40(1965).の川尻線廃止まで、多くの車両が40年以上も使用された。第2次増備車の33〜37の5両は日本商会製でできが良くなかったためか痛みがひどく、戦後すぐに廃車になっている。
開業当初は大きな救助網が印象的
竣功は11〜20が大13(1924).7.27、21〜30が同8.1、第1次増備車の31・32が同12.20、第2次増備車の33〜37が大14(1925).4.4となっている。(車両ごとの廃車日は、データベースの「車両の歴史」などを参照のこと。)
これらの車両は昭5(1930).6.4付で手動制動機の撤去が許可され、また昭28(1953).12.16付で集電装置のビューゲルへの改造、昭31(1956).6.28付で固定式救助器への改造がそれぞれ認可され、改造を受けた。(いずれも当時の在籍車のみ)