第一期線の工事開始

 これより先、電車会社は当時の市の状況や将来の交通情勢、用地買収費、道路拡張などを考慮し、大11(1922).10.12の市議会同意の上で、同10.20に既特許路線変更の申請を行った。変更部分は、
    1.幹線:祇園橋〜水道町を祇園橋〜呉服町〜横紺屋町〜花畑町〜行幸町〜(坪井川沿い)〜手取本町〜水道町(併用軌道)に変更する。
    また花畑町〜知足寺町〜水道町0.68mileを7.白川線として次期に繰り延べる。
    4.水前寺線:安巳橋〜味噌天神を水道町〜新屋敷〜味噌天神(新設軌道)に変更する。
    5.上熊本線(南廻):花畑町の起点(幹線との分岐か所)の変更
の4路線である。

熊本市電車部変更特許線(第一期線)
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 さらに会社は、特許路線中最も緊急を要する路線すなわち、
    幹線:熊本駅前〜水道町〜東坪井町(浄行寺町)複線2.9mile
    支線:水道町〜出水神社(水前寺) 複線1.0mile単線0.4mile
の2路線を第一期施工線として敷設することにし、同10.27に敷設工事施工認可を申請した。特許線の変更は大12(1923).6.26に、工事認可は同7.14に電車会社の利権を引き継いだ熊本市に与えられた。

 その後水前寺支線の新設軌道沿線の住民たちより、軌道敷設だけでなく道路も併せて開発して欲しいとの要望があり、その敷地は地元関係者から寄付の申し出がなされた。また、白川専用橋など4橋の架設費についても熊本電気会社から寄付の申し出があったため、同路線が重要で、併用線にすることが好ましいことであるのを認めながらも、その資金調達に苦しんでいた市は、幅員10間(約18m)の道路を新設して併用線にすることを決定し、大13(1924).3.12にこの変更を申請した。

 このように第一期線4.3mileを急速に敷設し、他の路線は後年に繰り延べる様に計画を進めるため、2か年継続事業として次のような予算が編成されたのである。

市電第一期線財政計画
支  出
総事業費 3,884,687円
用地買収費 1,479,605円
家屋等移転費 516,662円
軌道敷設・建物新築・車両購入・電線路架設費等 1,658,884円
特許権・財産買収費 192,569円
事業費 22,467円
運輸準備費 14,500円
収  入
財源総額 3,884,687円
市債(大11年度) 1,570,000円
市債(大12年度) 2,040,000円
県補助費 180,000円
指定寄付金 80,000円
市費繰り入れ 14,687円

 以上の財源計画に基づき、19か条からなる「市公債条例設定」に関する議案が提出、可決され、その許可を主務省に申請した。しかし当時の財界は長引く不況から脱しきれず、政府は地方の新起債を許可しない方針であったため、市当局は電車成否にかかわるとして日夜奔走した。その後高橋市長・松尾助役・市議会議員団の上京・交渉により、大12(1923).3.26に「電車事業公債条例」の許可を得た。

 この条例許可の遅れのため、大13(1924)年度までの継続事業として予算の手直しを行った。しかしその結果、大12(1923)年度の公債発行額が321万円の多額にのぼり、また経済界の不況や、さらに大12(1923).9.1の関東大震災のため市は資金調達が困難となり、公債の利率を上げさるを得なかった。

 軌道・鉄道の敷設において、最も難しいとされているのは用地の買収であり、軌道の先進各都市でもこれで多くの費用と時間を費やしている。熊本においても、市電第一期線については市の中心部の狭い道路を拡張したり、あるいは道路を新設してそこに軌道を敷設するため、その全線にわたって買収用地の面積および家屋の移転が多数にのぼり、交渉は非常に難しいものであった。特に宅地については面積で全体の68%、買収費用では実に91%をも占めた。

 市当局は大12(1923).5.11より全線にわたって交渉を開始したが、幸いにも地権者においてもその事業の性質を理解し、市の査定価格で交渉が円滑に進み、同年内に土地・家屋所有者中2名を除いてその承諾が得られ、翌大13(1924).1.には買収が完結した。

 用地買収の円滑な交渉により、第1区(花畑町〜浄行寺町)は大12(1923).12.下旬から、また第2区(熊本駅前〜花畑町)、第3区(水道町〜水前寺)についても翌1.上旬より道路の拡張および軌道敷設工事に着手した。道路はほとんど全線で幅10間(約18m)に拡張され、熊本駅前〜祇園橋については歩道併設の幅12間(約22m)に広げられ、大13(1924).6.末までに大体の敷設工事が終了した。

 レールは、幹線には当時市街軌道として定評のあった米国ローレン社の溝形レールを採用し、直線用には87lbs.(約39.5kg)、曲線用には99lbs.(約44.9kg)のものが用いられた。また水前寺支線にはT形の60lbs.(約27.2kg)レールが採用された。

 変電所は、大江町九品寺に鉄筋コンクリート製41坪(約135u)の建物を新築した。また動力については熊本電気会社と契約し、高圧三相三線式交流を直流600Vに変電して全線に供給した。関東大震災のため、当初は300kWの同期電動発電機(GE製)1基のみであったが、のちに300kWの回転変流機(GE製)1基と320kW変圧器(芝浦製)が増設された。

 電線路は架空単線式で、鉄柱・木柱に全線側柱式スパン線吊架法で取り付けられた。電車線には、BS-30番相当の溝付硬銅線を、帰線漏洩電流防止のための補助帰線にはBS-0番銅線が用いられた。

 車庫は防火耐震、白蟻の蝕害、保守費の軽減を考慮して鉄筋コンクリート製とし、総建坪336坪(約1100u)、車両24両格納のものが新築された。

 車両については別に詳しく述べることにするが、その形式選定に関しては「ボギー車」導入が当初から叫ばれていた。しかし当時の市の交通状況は大形車両を用いるほど輻輳はしておらず、仮に近い将来交通が激増しても、小形の車両の運行回数を増やすことで解決できるとして「単車」を採用した。

 いよいよ電車が開通することとなったが、その職員は大13(1924).5.上旬に一般希望者より募集し、同5.15に学力試験と体格検査を行った。その結果230名中100名が採用され、市役所内の教習所で同5.26〜7.5まで研修が行われた。そして7.27の本務採用試験ののち、7.28に車掌42名、運転手151名に採用辞令が渡された。さらにこの月には当初の3係は、車両を運輸と電気に分けて4つとし、それぞれ課に昇格させた。

 以上の様に、佐柳市長時代の大6(1917).以来約6年間の長期にわたった電車問題の推移を振り返ってみると、電車会社の創立が有力となっていた所へ、新任の高橋市長の大英断により、ほとんど初めの計画は一変して市営電車敷設となった。さらに松尾助役を首脳部へ据えて計画を進めていった。その間の関東大震災による財界の変動や資金調達、起債問題、工事変更などで関係者が努力した結果、起工よりわずか1年7か月目の、大13(1924).8.1に市電が開業することとなったのである。