川尻線の廃止

 昭40(1965).2.21限りで川尻線はその幕を閉じた。市電としては19年余り、熊本電気軌道時代から数えると40年足らずの歴史であった。ここでは廃止直前の川尻線を中心に、市電時代の川尻線について述べることにする。

 終戦直後の昭20(1945).12.1に新たに市電の一路線となった川尻線は、戦後の混乱期に大きな役割を果たした。終戦前から窮迫した食糧事情のために人より物の輸送が優先され、中にはネギ専用の電車まで出現し、沿線住民の積み残しが続出した。周囲の人たちから「ネギ電車」と呼ばれていたことからも、当時の状況がうかがえる。しばらくはこの様な状態が続いたが、国内が復興するに従って川尻線の輸送も次第に軌道に乗りだした。

 そんなところ襲ってきたのが、昭28(1953).6.26の大水害である。川尻線は迎町〜十禅寺町の約2.2kmは白川の堤防沿いに走っており、また他の区間も田んぼの中を走る路線であったために、被害は甚大なものであった。本山町(世安橋付近)の堤防決壊により、いたる所で軌道・路盤が破損・流失し、堆土は膨大なものであった。川尻線で無事だったのは、待避できた5両の車両だけであった。この大惨事も職員らの努力により、7.23に白川橋〜川尻町が、また残りの区間も11.14に復旧した。

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専用軌道を行く川尻電車
(山本満勝コレクション)

 川尻線は他の路線と違ってそのほとんどが専用軌道であったため、昭30年代後半から自動車が急激に増加してもその影響を受けることはあまりなかった。しかしカーブが全線で55か所(路線長の36%)もあり、そのほとんどは10〜15km/hの速度でないと通過できなかった。また道路との平面交差も46か所あり、約160mおきに踏切がある勘定となって、市電の中ではかなりスピードが遅い路線であった。

 戦後の川尻線を走った車両を見てみると、当初は熊本電気軌道からの譲受車である110形も走っていたが、昭27(1952).までに順次廃車となってしまい、市電10形に置き替わってしまった。この路線では他の形式の車両はほとんど見かけなかった。10形は市電開業当時からの木造単車で、戦後一部の車体更新はしたもののかなり老朽化しており、乗客からは「振動が激しい」「スピードが遅い」などの苦情が相次いだ。小形の単車しか走っていなかったのは、線路用地が狭くてカーブが多いためにボギー車などの大形車では接触の危険があったこと、国鉄豊肥本線の十禅寺ガードの高さが低くて、車高の高い大形車では通れなかったことなどによる。またレールや枕木などの施設もその都度補修を重ねていたが、その耐用年数はとっくに越えていた。

 この様に川尻線の評判は良くなく、乗客もジリ貧の状態で、同線だけでも毎年3,000〜4,000万円の赤字を計上していた。

 昭39(1964).2.14、市当局は市議会交通委員会協議会で、川尻線(河原町分岐点〜川尻町7.5km)の廃止を提案した。その主な理由として、
      ・古くなった施設では乗客の安全は保障できず、施設の改修に2億4,000万円かかる。
      ・白川改修工事で迎町〜十禅寺町の軌道移設が必要であり、その費用だけでさらにかかる。
      ・マイカーの増加やバスに乗客が食われ、毎年4,000万円程度の赤字が続いている。
というものであった。実際市電は昭33(1958)年度から赤字に転落し、昭37(1962)年度には1億8,000万円の累積赤字を抱えていて、改修の費用などとても出せないという実情もあった。

 地元住民は「川尻電車存置期成会」を結成し運動を展開したが、3.21地元住民のヤジの中市議会は川尻線の廃止を可決し、代わりにバスを走らせるとして運輸省に廃止認可申請を行った。しかし地元住民の反対運動は予想以上に強く、市と住民との間で何度も話し合いが行われた。当初昭39(1964).10.1廃止の予定であったが、当日を過ぎても一向に解決の兆しすら見られなかった。

 翌昭40(1965).1.22、九州産業交通社長の仲介で市と住民の意見がまとめられた。廃止の条件として、
      ・宮の前〜川尻町(1.5km)をバス道とする。
      ・残りの区間は地元住民の意見を尊重する。
      ・川尻地区の積極的な繁栄策をとる。
などが出された。その結果、2.11に廃止の認可が下りたのである。

 廃止直前の川尻線の運輸状況は次の通りであった。
      運転系統 7号系統 辛島町〜川尻町 8.3km(34分)
      営業時間 5:30〜23:15
      最短運転間隔 5.2分(朝ラッシュ時)
      一日当た乗客数 約13,000人
      在籍車両 客車15両(7号系統専用)、貨車1両 (いずれも世安車庫所属)

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世安車庫に停車中のさよなら電車
(山本満勝コレクション)
長六橋を渡るさよなら電車

 川尻線の通常運転は昭40(1965).2.20限りで終えた。翌2.21はお名残り運転ということで、7:00〜19:00まで6両の電車が計60往復走った。このうちの1両(23)はボディーをモールで飾り、側面に「永い間お世話になりました。みなさんさようなら」と書いた板を、また正面には国旗を付け、さらに車内は万国旗で飾り付けた。また廃止を記念して「電車川尻線バス転業記念」の乗車券(15円)が2.20から市内電車の車内、各営業所、熊本駅前と水道町の両詰め所で10万枚発売された。また沿線には最後の姿を見ようと多くのファンやアマチュアカメラマンが見受けられた。

 川尻線の廃止に伴い、世安車庫・世安変電所が廃止となり、4.2付で川尻線の車両16両も廃車となった。 また当日(2.21)からバス11系統148往復の運転を開始。翌日10:00から水道町の県福祉会館で関係者約300人を招いて「川尻線バス転業記念式典」が行われた。

 川尻線が廃止になってすでに35年が経過した。その軌道跡は道路や宅地になったり、河川敷になったりしている。この間にマイカーは激増し、国道沿いには商店・住宅が立ち並び、当時の面影はほとんどなくなってしまった。新旧両国道ともその交通混雑ぶりには目を見はるものがある。さらに近見〜川尻町にはバイパスも完成して交通量も増え、交通渋滞は一層激しくなった。将来の発展のためにバスに切り替えたはずなのに、今度はそのバスが身動きがとれなくなり、バイパスにより川尻町はかえって寂れてしまった感がある。

 交通混雑や環境問題がクローズアップされている現在、「電気で動く川尻線がもし残っていれば、貴重な財産になっていただろう」と言う人も多い。