昭和40年代の市電概説

 昭30年代後半に始まった自動車の急激な増加は、昭40年代に入ってますます激しくなった。この影響で、市電は速度の低下や乗客の減少を招き、さらに人件費等の高騰によって赤字も雪だるま式に増えていった。これに対して市交通局は、不採算路線の整理とワンマン化の2本立てによる合理化を進めていった。

 不採算路線の整理では、まず熊本電気軌道から買収した休止路線の百貫線(百貫石〜田崎6.5km)が特許切れで昭40(1965).2.11に廃止になったのをはじめ、同2.22には同じく旧熊本電気軌道の路線である川尻線(河原町〜川尻町7.5km)と世安車庫・世安変電所が廃止となった。次いで昭45(1970).5.1に坪井線(藤崎宮前〜上熊本駅前2.1km)と春竹線(辛島町〜南熊本駅前1.7km)が廃止され、さらに昭47(1972).3.1には子飼橋線(幹線の一部と黒髪線、水道町〜子飼橋1.6km)も廃止された。

 ワンマン化については、昭41(1966).2.1に2号系統に1000形5両のワンマンカーが運行を開始したのをはじめ、同6.からは3号系統にも、さらに残りの系統でも順次運行を開始した。そのため在来車両も昭41(1966).に200形を改造したのを皮切りに、350・190・188・180・150・160の各形式にも及んだ。

 この他に増収対策のひとつとして、車体に直接塗色した広告電車(カラー電車)もこの時期に登場した。昭46(1971).1.の「牛乳号」(1205)、続いて「はらのバーゲン号」(1353)を始めとして、次々と増えていった。

 また特記事項として、市電の速度向上のために昭48(1973).11.には軌道優先運動も行った。