ワンマンカーの登場
昭40(1965).12.17クリーム色に紺の帯というこれまでとは変わった塗色の市電(1002)が街の中を走った。これは当時4億円の累積赤字を抱えていた交通局が、経営合理化の切り札として採用したワンマンカーの試運転であった。経費の大部分を占め、しかも高騰を続けていた人件費を浮かすために、乗務員を2人から1人に減らそうというものであった。
昭41(1966).の熊本市電のワンマンカー導入は、九州内の路面電車では最初のものであり、公営14都市の中では名古屋・横浜・京都・呉の各市電に続くものであった。この年に大阪も、翌年に仙台・鹿児島の各市電がワンマン制度を採用した。
1000形ワンマンカーの試運転 |
ワンマンカーとして最初に登場した車両は、旧大阪市電の1000形5両(1001〜1005)であった。この5両(旧番号との対照はこちら)は、尼崎のナニワ工機(現アルナ工機)でワンマンカーに改造され、まず年内に1001〜1003の3両が、続いて残りの1004と1005が年明けて到着した。
このワンマンカーは試運転や乗務員訓練のあと、昭41(1966).2.1より2号系統に、また6.1からは3号系統に、さらに8.1からは1号系統にも運行を開始した。当初は前乗り後降りの料金前払い制であったが、ツーマン車が乗車券方式の後払い制であったことと、昭38(1963).5.1に登場したワンマンバスに整理券方式の導入が検討されてきたために、昭41(1966).11.1から現在の様な後乗り前降りの後払い制に変更された。
このワンマンカーの評判は、当初は決して良くなかった。運転士の労働量の増加や、両替に手間がかかって乗客の流れがストップしたり、また小銭がなくては乗車できなかったからである。また乗換券を発行しなかったことも不評の一因であった。
車両のワンマン化は、1000形の実績を見て400形も自局で改造の予定であったが、車両の状態があまり良くなく、在来車の200形や350形から改造に入った。改造の順序は、改造認可日付の順では次の様になっている。
改造認可日 | 形式 | 1両当たりの改造費用 | 改番 |
昭41(1966). 5.24 | 200形→1200形 | 約140万円 | 200→1210 |
昭41(1966).10.21 | 350形→1350形 | 約180万円 | |
昭42(1967).10. 9 | 188形→1090形 | 約230万円 | 188→1096 189→1097 |
190形→1090形 | 約230万円 | ||
昭42(1967).11.16 | 180形→1080形 | 約260万円 | |
昭43(1968). 7.24 | 150形→1050形 | 約230万円 | |
160形→1060形 | 約230万円 |
ワンマン化後の車号は原則として200、350形には1000を、他の形式には900を加えるとよい。後者に1000を加えなかったのは、一説には194が1194(人ひくよ)となって縁起が悪いからという話もあるが、1が2つ続くのを嫌ったのが実情らしい。また200を1210としているのは1の位を1から始めるためであり、188形の188と189が1096と1097になっているのは、190形が188形の増備車であり、性能・寸法・外観などにほとんど変わりがなかったために1090形に統合したからである。
ワンマンカーの増備により、4・5・6の各系統にも走るようになった。しかしワンマンカーはこれ以上増えることはなかった。それは坪井・春竹・子飼橋の各線の廃止によって、ツーマン車が次々と廃車になり、これ以上必要なかったからである。