百貫線の廃止
川尻線と同じく熊本電気軌道から買収された路線に百貫線(百貫石〜田崎6.5km)があり、戦時中の国策に従って全線の施設を撤去、休止路線となっていたことは前にも述べた(→未掲載)。この路線は川尻線廃止の11日前、すなわち昭40(1965).2.11に一足先に廃止となった。ここでは同線の休止後、廃止に至るまでの過程を簡単に記しておくことにしよう。
昭20(1945).3.1から休止路線となった百貫線に対し、鉄軌統制会はその期限を定めていなかった。しかし昭27(1952).5.1に休止期限を同5.31までにするとの通達があったため、市当局は5.10に休止期限延長の申請を行い、許可された。その後昭30(1955).と昭33(1958).にも同様の申請がなされ受理された。
昭36(1961).5.にも休止期限延長の申請がなされたが、この時には熊本県知事の期限延長反対意見も提出されている。その内容は、「戦時中に撤去し、施設が全く残っていない上に、現在の交通状況から見ても好ましくない。」というものだった。実際百貫線が走っていた県道の幅員は7〜9mしかなく、戦後の道路事情の激変により改正されてきた軌道建設規定に照らし合わせると、軌道の敷設は不可能であった。そのためこの時には申請に対して許可は下りなかった。
そうした中、軌道事業の再建のために川尻線を廃止することになったが、この時に「現在実際に輸送を行っている川尻線を廃止せざるを得ない状況下であるので、営業休止以来すでに20年近く経過し、特許自体実効を伴わない百貫線を事務整理上廃止していただきたい。」旨の通達が運輸省からあったため、同地域の現状を考えて、昭39(1964).9.10に同線の廃止申請を提出した。
もし百貫線の営業を再開した場合、用地関係を除いても、軌道・施設の建設費に約2億2,000万円かかり、営業収支も昭38(1963)年度基準で計算すると、収入約2,000万円に対し、支出約4,700万円となり、大幅な赤字が予想されていた。また特許は「県道熊本〜玉名線上に敷設すること」が条件とされていたため、道路拡張などを含めると巨額の費用が必要だったのである。
結局、熊本電気軌道から譲り受けた百貫線には市電が走ることはなかったのである。