昭和30年代の市電概説
坪井線の開通で乗客数を伸ばした市電は、昭30年代に入っても市内交通の主役としてますます活躍していった。昭32(1957)年度には一日平均乗客数がついに10万人の大台を突破した。昭34(1959).4.1には昭28(1953).6.26の大水害以来不通であった代継橋も開通し、同12.24には田崎線(熊本駅前〜田崎橋0.6km)も開通して、路線長は31.6km(休止路線6.5kmを含む)にまで達した。翌昭35(1960).には熊本で国体が開かれたこともあって、一日平均乗客数は11万人を超え、東京オリンピックが開かれた昭39(1964)年度には116,097人(年間乗客数は昭38(1963)年度が最高)とピークに達した。また車両も昭30(1955).〜36(1961).に大形ボギー車23両を新造し、輸送力の増強を図った。
しかし国内は高度経済成長の時期でもあったため、人件費の高騰、諸物価の急上昇、マイカーの増加など思いもかけぬ問題が徐々に市電の地位を脅かしていった。
昭33(1958)年度、絶頂のさなかに市電の経営は赤字に転落してしまった。その後合理化の遅れもあって、乗客は増えるが赤字も増えるという現象が起きてしまい、以後赤字は雪ダルマ式に増えていったのである。
合理化の筆頭に上がったのが、単車をボギー車に置き換えて乗務員一人当たりの輸送力を増やすことであった。さらにこれまで新車購入を行っていたのを、中古車両の購入に切り替えることによって支出を抑えた。こうして登場したのが「大阪さん」の愛称で昭38(1963).から登場した旧大阪市電の車両である。
さらにワンマン化をはじめとする合理化も行われたが、これは別項に譲ることにする。