昭和10年代〜終戦の市電概説
昭10(1935).春、熊本で大博覧会が開かれることになり、その開催に間に合わせるべく第二期線の未成線、すなわち段山町〜上熊本駅前1.3kmの工事が急ピッチで勧められ、昭10(1935).3.24から営業を開始した。
一方、当時日本は軍国化が進み、国内では昭7(1932).に5.15事件、昭11(1936).には2.26事件が起こった。また対外的には、昭12(1937).7.7の蘆溝橋事件で日華事変が勃発、昭16(1941).12.8には太平洋戦争へと突入していった。戦局が進む中、徴兵、物資の配給制などにより、熊本でも交通機関は大きな影響を受けた。バスの木炭車化や休業が相次ぐ中、その動力を水力発電に頼っている市電は、市内唯一の交通機関となった。しかし物資の欠如から、増加する乗客に対して車両や設備の増備・整備は追いつかず、昭16(1941).11.1からは朝夕の急行運転を実施した。翌昭17(1942).4.1より急行運転時間の延長、昭18(1943).12.28には終日急行運転となり、そして昭19(1944).3.21には、朝夕の特急運転まで実施されるようになった。また乗務員の確保についても徴兵によって非常に困難をきたし、バスの後を追って昭13(1938).6.には女子車掌が、そして昭19(1944).10.には女子運転士まで登場したのである。
また、かねてからの計画であった熊本電気軌道の買収計画も進められ、昭19(1944).3.24にその決定がなされた。同社の百貫線、川尻線とも設備の老朽化がひどく、買収後に設備・車両とも改良して営業を行う予定で、買収決定後すぐに市電気局職員が会社側に送り込まれていた。しかし戦局の悪化に伴い、百貫線は国の金属回収策の対象路線となり、その一部は昭19(1944).10.25より着工していた健軍線の資材に回され、昭20(1945).3.1より休止路線となった。当時健軍地区には三菱の軍用機工場があり、その工員を輸送するために同線の建設が進められたのである。その健軍線(水前寺〜三菱工場前3.4km)は、昭20(1945).5.6に開業した。
昭20(1945).7.1、熊本市は大空襲に襲われ、市内のほとんどは焦土と化した。しかし幸いなことに、市電は架線の一部が焼けただけで、車両・車庫とも無事であった。