市電創業前の交通機関
K.K.T.K.は「熊本軽便鉄道」の略だと言われているが...
熊本市内の大量輸送交通機関の始まりは、九州鉄道の進出を別にすれば、熊本軽便鉄道鰍フ蒸気軌道敷設に始まる。この会社は明39(1906).3.25に軽便鉄道の敷設を出願し、翌明40(1907).12.20より運輸を開始している。
当初の路線は安巳橋〜水前寺の区間で、明41(1908).7.24に南千反畑(縣廳前)〜二里木(当時飽託郡)を開通。大日本軌道(本社:東京・京橋)に合併されて同社の熊本支社となった後、同9.8には大津(菊池郡)まで線路を延ばした。
縣廳前を行く大日本軌道の軽便鉄道(宮崎光雄コレクション)
一方、市内路線は上記の2路線と上熊本を結ぶために、明43(1910).5.4に草葉町(縣廳前)〜知足寺町(新代継橋)、明44(1911).4.28に宮内〜上熊本が開通。同6.7には残りの知足寺町〜宮内も開通して全線約15mileとなり、しばらくして紀念碑前〜水前寺、上熊本〜大津の運転系統となった。しかし、大3(1914).6.21に院線宮地線(現JR豊肥本線)の熊本〜大津が開通すると、小磧〜大津を廃止し、のちに北千反畑〜小磧の営業も取りやめた。
本妙寺前付近を走る大日本軌道の軽便鉄道(絵葉書より)
この軽便鉄道は軌間2'-6"(762mm)で、蒸気機関車が小形の客車を1両引くだけであったため、とても大量輸送機関と言えるしろものではなかった。よく脱線し、また力がないために坂道では乗客が汽車を押すという珍風景も見られた。さらに蒸気軌道であったためその黒煙は非常に評判が悪く、のちの電車敷設のきっかけとなった。
当時もう一つ熊本市内には菊池軌道(明42(1909).8.15創立、現在の熊本電気鉄道)の路線があった。明44(1911).10.1に池田(上熊本)〜千反畑(廣町)で営業を開始。大2(1913).3.15には高江〜隈府(菊池郡)が、同8.27には残りの廣町〜高江が開通した。こちらも蒸気軌道ではあったが、市内路線が短かったためか大日本軌道ほどの悪評はなかった。また軌間も3'(914mm)で、車両もやや大きいものを使用していた。(この路線は大12(1923).に電化された。)
千反畑に停車している菊池軌道の軽便鉄道(宮崎光雄コレクション)