電車敷設問題
悪評の蒸気軌道に代わって、電気軌道を走らせようという問題が持ち上がったのが大2(1913).。そして、市において電車敷設問題が具体的に研究されるようになったのは、大6(1917).の終わりのことであった。
当時日本は第一次世界大戦の影響もあって最も好況の時期であり、また市民も急速に電車を敷設することを希望していたため、その研究機関として「電車期成会」を大6(1917).10.18に発足させた。その構成は、佐柳市長をはじめとして県選出の代議士、県・市会議員、商工業各界代表者などから成っていた。しばらく後に市役所内に「創立事務所」も設置して種々の調査を行ったが、思うようには進まなかった。
大7(1918).9.には電車問題に関する資料を集めるために、山隈市議会議員ら4名が電車の先進地である福岡(開業:明43(1910).3.9)、久留米(同:大2(1913).7.)、長崎(同:大3(1914).8.2)、鹿児島(同:大元(1912).12.1)などの事業状況を視察し、同10.11にその報告会を開いた。その会合で、大日本軌道の持つ蒸気軌道を電化することとし、会社側と正式に交渉に入った。
一方大日本軌道は、熊本軽便鉄道時代に軽便鉄道敷設の出願をした際に交わした市との契約(第2条:水力電気事業成立の上は電気軌道に変更することを締結する)に基づき、大2(1913).に電気軌道変更出願を提出し許可を得ていたので変更計画を進めていたが、第一次世界大戦の影響で物価が高騰し、計画も中断されていた。大6(1917).1.、会社は県と市に対し補助を申請したので市では実状調査を行った。こうした中で「電車期成会」が設立されたので、両者間で多くの協議が重ねられた。
大8(1919).6.市は市議会議員9名からなる第一次電車委員会を設置、さらに東京市電気局の技師をも招いて線路・その他の実地調査を行った。そして同10.には大日本軌道への補助が内定した。が、経営主体については市営・民営の二案が対立しており、当時の市の財政が苦しかったため、同11.に市を中心とした資本金300万円の新会社を設立し、大日本軌道より一切の権利および財産を買収して電車を走らせることにした。
一方大日本軌道はこの頃にはすでに熊本での軌道事業には見切りをつけていた。蒸気軌道路線は北千反畑〜上熊本と安巳橋〜水前寺の約6mileに短縮されており、運行回数も以前より激減していた。そして大9(1920).7.1の東京での株主総会の結果、翌日すぐに全廃されてしまったのである。こうして大日本軌道の電化計画は実現しなかった。
電車問題はさらに多くの曲折を経て新会社創立の成案を見るに至った。しかし経済状態はなお不安定であったため、新会社設立にも不安を持った市は、既設会社でも充分な動力が得られる熊本電気鰍フ電車経営が最も得策とし、大8(1919).11.27電車委員会を開いて、正式に交渉を開始した。
大9(1920).2.28熊本電気会社は市に仮契約を提出、多少の修正を加えて締結された。15項目からなるこの契約の一部を見てみると、
・道路の拡張は市で行い、会社は定款を改正し軌道を敷設し電気事業を兼営する。
・道路の拡張費は市と会社で折半する。
などがあった。市は同社に敷設計画概要等の提出を求め、一方同3.には大阪市に照会して電気軌道事業の状況を調査し、また内務省に対しても道路幅員等について問い合わせた。
大9(1920).というのは戦後恐慌が起こった年でもある。銀行の破綻、生糸・綿糸の暴落、多くの会社の倒産騒ぎがあり、日本の経済界は完全にストップしてしまった。こうした中で進行中の電車敷設問題も停滞し、熊本電気会社は電気軌道経営をためらうこととなった。
しかしその後も市と会社で多くの協議を重ね、今後財界の状況が緩和した後に仮契約に基づいて実行準備に着手することになった。