健軍線路線長の謎
市電健軍線の路線長を様々な資料で調べてみると、3.3km、3.4km、3.6kmの3種類があることがわかる。これは一体どういううことなのだろうか?
結論から言えばすべて正しいのである。ここではこの謎について紹介しよう。
●開業当時の健軍線
健軍線は1945.5.5に開業した。当時、健軍にあった三菱航空機製作所への工員輸送を目的に作られたのだが、資材調達難から単線で開業している。
この路線長は今の健軍線より0.3km長い3.6kmであった。このうち起点から3.4kmの位置に全長91mの待避線を持った「三菱工場前」という電停があり、この先0.2kmの引上線が非営業路線であった。
このように長い待避線と引上線が存在していた理由は今のところ資料が見つかっていないが、貨物輸送も想定されていたのではないかと推定される。
開業当時の健軍線終点(熊本市電線路特許関係資料より)(クリックすると拡大します) |
●健軍線の短縮
1947.1.17付けの「工事方法書一部変更(停留場位置、名称並軌道延長)認可申請」の理由書によると、健軍終点について次のような記述が見られる。
「三菱工場前停留場は本線路建設当時三菱工場工員輸送の目的を以て同工場の尤も便利な位置に設置致しました処終戦後同工場は縮少せられし結果其の名称不適当と思考せられ随而位置も移転の必要を生じましたので種々調査研究致しました処名称を健軍町停留場と改め位置を一〇〇米神水橋停留場寄に移転し尚軌道延長三、六〇〇粁(注:米の記述ミス)を三、三三〇米に短縮するとせば保修並に資材の節約にもなりますので今般工事方法変更申請書の如く停留場の位置及名称を変更し併て軌道延長を短縮せんとするものであります」
早い話、「戦後工場の縮小で名称、位置共に不適当になった」ことと、「補修用の資材確保」のために健軍線を短縮したのである。
上の平面図はその申請書に添付されていた図面である。これを見れば当時の位置関係は明らかである。
この申請は3.19に認可され、同日から名称が健軍町に改称された。
●健軍線の複線化
その後健軍線は1950.〜52.にかけて3回にわたって複線化工事が実施された。これにより輸送力が増し、市の東部地区の発展に大いに貢献したのである。
●残っていた縁石
軌道の脇には境界を示す「縁石」が敷設されていることが多い。ところがどういう理由からか、線路が撤去された区間の縁石は1970年頃まで残っていたと記憶している。手元には「拡大するとそれらしいものが写っている」写真はあるが、はっきりとはわからない。どなたかこれが写っている写真をお持ちでないだろうか...