坪井線の3線軌道(B19)
熊本市電に3線軌道があったことはあまり知られていない。ここでは存在したその3線軌道について紹介しよう。
3線区間を行く散水車 |
坪井線の3線区間(昭和36年熊本市電線路平面図より) (クリックすると拡大します) |
●3線軌道の詳細
右の「昭和36年熊本市電線路平面図」を御覧いただきたい。これを見れば一目瞭然なのだが、ちょっと補足ををしておこう。
3線軌道の正式名称は「熊本電気鉄道上熊本倉庫線」と呼ばれるものである。電鉄上熊本駅から延びた線路はそのまま駅前を横断して市電に接続。さらにその先234mが市電坪井線の上り線(藤崎宮前方面)と外側のレールを共用している。線路の行き先は「熊本倉庫」である。これは電鉄が所有する倉庫と思われ、敷地内には車両の付け替えができる引き上げ線もあることがわかる。
●3線軌道の使い方(1)〜電鉄の場合
3線軌道の使い方であるが、線路の行き先が倉庫であることから、電鉄では倉庫への出し入れに使用していたことは明らかであろう。
その運行形態であるが、これについては今のところ全く資料がないため不明であるが、私は次のように想像している。
まず牽引していたのは電鉄の電車であったものと思われる。これは電鉄の架線が市電と同じ直流600Vであることと、電鉄市内線の廃止前は、電車が貨車を牽いていたことが判明していることから、その延長線上にあると考えたからである。当時の市電の運転間隔が日中で約12分であったことから、事前に運行時刻の確認さえしておけば市電への影響はなかったものと考えられる。
その後熊本電鉄に詳しい知人が、以前に電鉄上熊本駅駅長をされていた方のお話を伺ったところでは、「運行は昼間で、1日1往復だった」そうだ。「当時市電の上熊本には詰所があり、そこで運行打合せをして電鉄の電車が貨車を牽引して倉庫まで行っていた」ということである。熊本倉庫では、菊池方面でできたお米を木造の貨車に積んで運ばれてきたのを一時保管していたようである。
しかし実際に3線区間を牽引している写真にはこれまでお目にかかったことがないので、今のところ確認は取れていない。
3線軌道を利用した車両搬入('57.) |
●3線軌道の使い方(2)〜市電の場合
市電に3線軌道の使い方があるものか? と思ったあなた。実はこの形態は市電について重要な役割とメリットが存在していたのである。
坪井線開業後の'55(昭30)年度以降、同線が廃止される'70(昭45)年度までに登場した車両、すなわち188・190・200・350・380・390・400・1000形の8形式合計53両の搬入に際しては、この3線軌道が活躍したのである。
車両工場などから国鉄の貨物として輸送されてきた車両は、そのまま上熊本駅前の3線軌道に運ばれ、次のような手順で搬入された。
(1)4台のフォークリフトで車体を持ち上げ。
(2)国鉄貨車(形式シ)を抜き取る。
(3)市電の台車を押し込む。
(4)車体と台車をドッキング。
(5)市電で大江車庫まで牽引。
この方法で行うと比較的容易に短時間で車両の搬入ができたのであった。正確に言えば搬入に利用できる3線軌道の区間が短かったので、市電のレールを延長する形で角材(枕木?)で仮設のレールを敷設して行われたのだった。
当時は交通量が比較的少なかったために、真っ昼間に駅前で搬入作業ができたのだ。仮にこの軌道が残っていたとしても、現在のような交通量では深夜でも許可が下りるかどうか怪しいものである。
1000形搬入も昼間に('66.1.) |
●3線軌道のその後
この3線軌道のうち、電鉄の上熊本倉庫線は'66(昭41).7.6に廃止となった。その直後倉庫線の軌道は撤去され、9.13から翌年の2.23にかけてこの区間は敷石舗装となった。つまり終点の電停付近を除いた200mの区間は、3線軌道時代は舗装がなされていなかったのである。
軌道撤去後も終点のポイント付近のレール交差部分には、狭軌の軌道が残っていた。駅前の電鉄の軌道はかなり後まで残っており、坪井線廃止まで狭軌と標準軌のレールが頭を突き合わせていたという珍風景を見ることができた。
以上簡単ではあるが、手持ちの資料から坪井線の3線軌道についてまとめてみた。電鉄側の資料を調査していないので何とも言えないが、今後関連した資料や写真が出てくる可能性が大いにある。
もしこれに関する資料や気づいた点、指摘事項などがあればぜひ御連絡を願いたい。そしてより良い資料にまとめ上げていきたいと思う。
(取材協力:堀田和弘氏)